電話ボックスの中で食いしばって泣いていた私に、友達は「とりあえず来なよ」とフツーの感じで言ってくれました。
このどんな時でも同じテンションで対する事が出来ると言う友達の能力は、すごい才能だと思うし、色々な人を本人が気がつかないうちに救っていると思います。
そんなやり取りをして電話を切ると、とにかくそこから、なけなしのお金をはたいて友達の家に向かいました。そして友達の家が歩く先の方に見えた時、物凄くほっとしました。今でもその時の感覚をはっきり覚えています。
友達と友達の家族は、「糸川ちゃんご飯食べた?」と言ってご飯を食べさせてくれました。それから「糸川ちゃんシャワー浴びてきな」と、お風呂に入らせてくれました。その日はその後そのまま泥のように寝てしまいました。
翌朝になり、いろいろ事情を話す余裕が出来たので、その時の現状を全て伝えると、友達と友達の家族が「家が見つかるまでいたら良いよ!」と言ってくれて、1か月とちょっとの間お世話になる事になりました。
毎日ごはんを食べさせてもらえて、あったかい布団で眠れて。
色々言えない事情もあるのはきっと分かっていたはずなのに、誰も何も聞かずにただそこに置いてくれた事が本当にありがたかった。
そんな1か月とちょっとの時間でした。
私のその時の仕事は夕方の6時から翌朝の6時までで、友達の家に戻るのが朝7時か8時くらいだったので、友達のお父さんが「俺は入れ違いで仕事に行くから、糸川ちゃん使って寝ていいよ」と昼の間ベッドを貸してくれました。
友達のお母さんは、毎日ご飯を出してくれて、洗濯も一緒にしてくれて、色々心配してくれて、本当のお母さんみたいでした。
おばあちゃんは私が服を持っていないのを見て服をくれたり、さみしくない様に色々とおはなしをしてくれました。
友達は、着るものから、情報から、色々と協力をしてくれて、おかげで体勢を立て直すことが出来ました。そして、友達にだけは誰にも言えないことも全部話せたし、動揺することなく聞いてくれました。お陰で私は真の孤独にならず、今までやってこれたと思います。それゆえ今でも友達だけが知っている事がいっぱいあります。
気が付けば親戚の人も仲良くしてくださっている状態で、本当にこの家のみなさんのおおらかさ、やさしさに救われました。
人を信じる心を捨てずにいる事が出来ました。
そうこうしているうちに弱っていた身体も回復し、運よくお金をかけずに家を見つける事が出来ました。
そして、お世話になった友人の家から、新しい家に移ることになりました。
その時もベッドをもらったり、車を貸してもらったり、本当に何から何まで色々と助けてもらいました。
今でもこの時の恩は忘れていません
当時もなんかもう本当に感謝しかなかったです。
言葉が出なくて「ありがとうございます」しか言えませんでした。
ここで友達の家でのひとときの生活は終わります。
そしてここから私の伊勢佐木町・福富町・阪東橋での生活が始まります。
さて、ここからは後日談です。
友達と友達の家族とは今現在までずっと縁が続いていて、少し前にも会いに行く機会がありました。
その時に
友達は「会えてうれしい」と再会をすごく喜んでくれて、仕事の応援を全力でしてくれたり、色々と知恵をくれて「やっぱりすごいなぁ」と思ったし
友達のお母さんは「寒いから私の上着、着ていきな」などと、色々と心配してくれて、初めて会った時と全然変わらずお母さんみたいで
友達のお父さんは「糸川ちゃんは18の時から知ってるし、もう娘みたいなもんなんだからさ、色々気にすんなよ。」と言ってくれて、何だか涙が出そうになっちゃいました。
あの時この人達がいてくれたから、今私はこうやって生きているんだ。
心からそう思います。
私のとっての宝物です。
今日はここまでにします。
この続きは次回。